ナマハンカな広東語は無意味か、という問題
香港人妻と暮らす、広東語歴15年のわたしです。
広東語を勉強するメリットですが、香港に15年も住んで広東語にどっぷりつかっていると、日本語の本、とくに日本文学が読みたくなるという症状が現れるのはわたしだけではないでしょう。わたしはこれをメリットと呼んでもよいと思う。
例えば、私の本棚には
佐藤春夫 田園の憂鬱
森鴎外 青年
吉行淳之介 原色の街・驟雨
川端康成 女ということ
小松左京 日本沈没
などの本がたくさん積読されている。
こうした本を広東語と広東語の隙間で、なめるようにして読むようなことは、日本に住んでいるときは考えもしなかったと思う。
「作家の友情」(河盛好蔵 著)を読んでいるとき、考えさせらる箇所があったので以下に引用しておく。
p.19 (春夫と大學)
《(略)尤もわたくしとても時々は語学ぐらいはもう少し勉強して置けばよかったような気がしないでもない。しかしわたくしは魂の底からの日本人らしく、わたくしには日本語だけでたくさん、ほかの国の言葉はおぼえる余地もなかったような気がする。語感まで十分味わえない言葉などを、ナマハンカにおぼえて見たところで文学には少しも役立つものではない。わたくしはよく訳された翻訳(たとえば鷗外など)の恩恵だけで十分と考えて、外国語を身につけなかったことをも後悔しないことにしている》と春夫は『詩文半世紀』のなかに書いている。彼はやがて、そのよき翻訳の訳者のなかに大學を数え、大きな恩恵をうけることになるのである。
広東語歴15年で、香港人妻と暮らしているにも関わらず、わたしの広東語は、佐藤春夫のいう「語感まで十分味わう」レベルまでには至っていないと思う。
毎日努力をして一歩ずつ近づくことはできるけれども、到達することはできないのではないかと思う。
しかし、その努力する過程で得られるメリットは十分価値があると思う。
以上
#広東語