広東語、その魅力と魔力
「中国語、その魅力と魔力」を読んだ。
著者は牛島徳次氏 元筑波大学名誉教授の中国語学者である。
私は10代のころから外国語に執着していて、この問題をかれこれ
もう30年ちかく抱えて生きている。
そのため、「いかに効率的に外国語を習得するか」という個人的な問題を
解決するために、外国語に関する本は極力買って読むようにしている。
今回この本を読んでいてこういうことが書いてあった。
下に引用してみる。
第一章 中国語との出会い p22~
漢字だけで書かれている「支那語」の文章は、わたしの「読む」は、
「漢字」を目で拾ってその意味を考える、といういわば「漢文」の「訓読」式の
やり方で、中国語としての「発音」はほとんど無視されていた。
そういう我流の読み方、つまり「目だけで意味を考える」読み方は、
外国語としての中国語を学ぶ場合、「百害あって一利なし」で、そのことに気が
付いたのは「終戦」後、十数年たってからだった。
そういう点からすると、この時期は、わたしの、頭の中に「音」が響かない
「黙読」の事始めの時期だった。
私はこの文章を読んで身につまされる部分があった。
私は毎日前回紹介した「松本清張 半生の記」の広東語版と、並行してその他の
広東語の本を読んでいるが、ややもすると「広東語音」を無視した読み方を
してしまうことがある。
やはりそのほうが速く読めるからである。
時間に余裕があるときは、私もなるべく目で見た広東語の文章を、頭の中で
「広東語音」に直して読むようにしている。
読み方が分からない場合は、それをメモ帳に書いておいて帰宅してから
調べることにしている。
(スマホで写真を撮った場合は、ほとんどの場合忘れてしまうので)
小説家の大岡昇平氏は、フランス語で書かれたスタンダールの作品(パルムの僧院など)を翻訳しているが、フランス語の会話は全くできなかったという。
時代背景が大いに関係していると思うが、
現代では、外国語は読めるだけでなく、やはり会話ができるほうがそれだけ
仕事で使えるし、チャンスも広がるだろう。
お坊さんもお経を読むときは音読しなければ読んだことにはならないという。
今後、広東語や英語の本を読むときは音読するように心がけようと思う。
以上