(その⓷)香港人妻との間に生まれた私の娘がいかに日本語を話せるようになったか
日本でリタイヤ生活をしていた私の母に頼んで我が家に来てもらってから
1カ月で、今まで広東語しか話さなかった娘が、日本語を流ちょうに話すようになった。
「確かにここにえんぴつを置いたはず」
「いつのまにか私の本がなくなった」
こんな感じで全く違和感がない日本語を話せるまでになった。
娘が生まれたときから極力私は日本語で話しかけるようにしていたと以前に書いたことがあるが、実際に振り返ってみると、実は娘がシャワーとして浴びた日本語量はたいしたものではない。会話が成立するようになってから、良くないと思いながらも、手っ取り早いので私も広東語で娘と話すようになってしまっていた。
また普段私は仕事のほうが忙しいということで、娘と接触する時間がかなり少ない。
そういう環境だったので、娘の脳内の日本語量は決して多くはなかったと思う。
ではどうしてこんなに早く日本語を上達するのだろうか?
一般的には「こどもは頭が柔らかいから」「こともは語学の天才だから」と言われるが、私はそういう通説に納得したくはなかったので、注意深く観察してみた。
すると、子供が外国語を学ぶとき、大人の我々と大きく違っている点は、
どうも「動作」を伴っているかどうかということのようだ。
例えば、娘はぬりえをしながら私の母親と日本語で会話している。
母親が言った言葉を、その場面で繰り返しながら自分のものにしている。
つまり、外国語そのものを学習しているのではなく、あくまで主体はぬりえで外国語は付属的なものになっている。
娘にとっては、外国語つまり日本語それ自体はそれほど重要なものではなく、そのため言い間違っても気にする必要がない。
娘にとって何よりも重要なことはぬりえなので、それについて意思疎通がうまくできれば、表現の正確さはそれほど重要ではない。
私たち大人が外国語を学習するときにこれを応用できないだろうか。
例えば、広東語を学習する目的を広東料理としてみると、
広東料理の仕込みをしながら、広東語の単語やフレーズを発音する。
例えば、ブルースリーが好きでたまらないなら
自分がブルースリーだと思い込んで、体を鍛えながら広東語の単語やフレーズを発音する。
香港文学が好きならば、
広東語で香港文学を書いてみる。それを発音してみる。
駅前留学で外国語の「会話」を勉強しているひとに、使ったお金分の効果が表れないのは、これと反対のことをしているからなのかもしれない。
つまり、「会話」を主体にして、「行動」または「動作」が伴っていないからなのだろう。
こう考えると、広東語も含め、外国語の学習の初期段階は、
語学学校に通うよりも、独学のほうが効率がよいと思う。
独学だとお金の少なくて済むし、隙間時間から始められる。
その初期段階を独学で通過して、ある程度のレベルまで達してから
学校に通うという方法が、最も効率的でお金が少なくて済む方法だと思う。
さっそく私もこの方法を取り入れてみようと思う。
以上